フィリップ殿下は、亡命王子という過酷な運命を乗り越え、エリザベス女王の「最大の支え」として英国王室の近代化に生涯を捧げた人物です。その99年の人生は、栄光だけでなく、孤独や葛藤、そして深い愛に満ちた人間ドラマそのものでした。
この記事では、歴史の教科書には載らない彼の真実の姿を、英国王室文化研究家の視点から紐解いていきます。
この記事でわかること
- ギリシャからの亡命から始まった、波乱万丈な生い立ちと家系図
- 「王配」としての苦悩と、女王と築き上げた70年以上の夫婦の絆
- ユーモアや失言、父親としての素顔など、公式記録にはない人間的魅力
約1世紀にわたり激動の時代を生きた一人の男性の生き様を通じて、英国王室の奥深さに触れてみてください。
フィリップ殿下の基礎知識と家系図:激動の99年を俯瞰する
このセクションでは、フィリップ殿下の基本的なプロフィールと、ヨーロッパ中の王室と繋がる複雑な血縁関係を整理します。彼がどのような背景を持ち、どのようにして英国王室の中枢へと入り込んでいったのか、その全体像を把握することで、後述する彼の人生のドラマがより深く理解できるようになります。
エディンバラ公フィリップ殿下のプロフィール概要
エディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh)は、1921年にギリシャ・デンマークのアンドレアス王子とアリス妃の長男(末っ子)として生を受けました。しかし、その高貴な生まれとは裏腹に、彼の人生は誕生直後から波乱の連続でした。以下に、彼の公的なプロフィールを整理します。
| 全名 | フィリップ・マウントバッテン(出生名:フィリップ・ティス・エラザス・ケ・ザニアス) |
|---|---|
| 生年月日 | 1921年6月10日 |
| 没年月日 | 2021年4月9日(享年99歳) |
| 称号 | エディンバラ公爵、メリオネス伯爵、グリニッジ男爵 |
| 配偶者 | エリザベス2世(英国女王) |
| 子女 | チャールズ3世(現国王)、アン王女、アンドルー王子、エドワード王子 |
| 兵役 | 英国海軍(第二次世界大戦に従軍、最終階級は海軍元帥など) |
彼の人生における最大の特徴は、生まれながらの「王子」でありながら、国を追われ、姓を変え、国籍を変えてまで、一人の女性への愛と英国への忠誠を貫いた点にあります。彼は単なる女王の夫ではなく、自らの手で運命を切り拓いた一人の開拓者でした。
ヨーロッパ王室をつなぐ華麗なる家系図(ヴィクトリア女王の玄孫)
フィリップ殿下とエリザベス女王が「遠い親戚」であることは有名ですが、具体的にどのような関係にあるのかを理解することは、彼のアイデンティティを知る上で不可欠です。二人は共に、19世紀に「ヨーロッパの祖母」と呼ばれたヴィクトリア女王の玄孫(やしゃご)にあたります。
以下の表は、ヴィクトリア女王を起点とした二人の血縁関係を簡略化したものです。
| ヴィクトリア女王 (1819-1901) | |||
| ↓ アリス王女 (次女) |
↓ エドワード7世 (長男) |
||
| ↓ ヴィクトリア・オブ・ヘッセン (孫) |
↓ ジョージ5世 (孫) |
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| ↓ アリス・オブ・バッテンバーグ (ひ孫・フィリップの母) |
↓ ジョージ6世 (ひ孫・エリザベスの父) |
||
| フィリップ殿下 (玄孫) |
エリザベス2世 (玄孫) |
||
このように、二人は「またいとこ(はとこ)」の関係にあります。さらにフィリップ殿下は、父方を通じてギリシャ王家およびデンマーク王家の血を引き、ロシア皇帝ニコライ1世の子孫でもあります。彼の血管には、ヨーロッパ中の王家の血が流れていると言っても過言ではありません。
しかし、この高貴な血筋こそが、若き日の彼にとっては重荷でもありました。第一次世界大戦後の反ドイツ感情や、ギリシャ王制の崩壊など、血縁による政治的な荒波に翻弄され続けたからです。
99年の生涯年表:誕生から崩御までの主要イベント
フィリップ殿下の99年は、まさに20世紀から21世紀にかけての世界史そのものです。彼の人生の節目となる出来事を時系列で確認してみましょう。
▼フィリップ殿下 略年譜(ここをクリックして展開)
- 1921年(0歳): ギリシャ・コルフ島にて、アンドレアス王子とアリス妃の間に誕生。
- 1922年(1歳): ギリシャ革命勃発。クーデターにより父が処刑の危機に瀕し、一家で国外へ亡命。「オレンジの木箱」をベッドにして英国軍艦で脱出。
- 1928年(7歳): 英国へ渡り、母方のマウントバッテン家(叔父ルイス・マウントバッテン卿ら)の庇護下に入る。
- 1934年(13歳): 従兄弟の結婚式で、当時8歳のエリザベス王女と初めて対面。
- 1939年(18歳): ダートマス海軍兵学校にてエリザベス王女(13歳)と再会。王女が一目惚れし、文通が始まる。第二次世界大戦に従軍。
- 1947年(26歳): ギリシャ・デンマークの王位継承権を放棄し、英国籍を取得。「フィリップ・マウントバッテン」となる。11月にエリザベス王女と結婚。
- 1948年(27歳): 長男チャールズ皇太子(現国王)誕生。
- 1952年(30歳): ジョージ6世崩御。エリザベス2世が即位し、フィリップは「王配(Consort)」となる。海軍でのキャリアを完全に断念。
- 1956年(35歳): 「エディンバラ公賞(The Duke of Edinburgh’s Award)」を創設。
- 1957年(36歳): 女王より正式に「英国王子(Prince of the United Kingdom)」の称号を授与される。
- 2017年(96歳): 公務からの引退を表明。単独公務の回数は22,219回に及んだ。
- 2021年(99歳): 4月9日、ウィンザー城にて老衰のため安らかに崩御。
この年表を見るだけでも、彼がいかに激動の時代を生き抜いてきたかがわかります。特に幼少期の亡命劇と、海軍士官としての将来を有望視されながらも女王の即位によってその道を閉ざされた経緯は、彼の人格形成に決定的な影響を与えました。
英国王室文化研究家のアドバイス
「フィリップ殿下は結婚に際し、ギリシャ・デンマークの王位継承権を放棄し、母方の姓『マウントバッテン』を名乗りました。これは単なる手続きではなく、彼が過去のアイデンティティを捨て、英国人として生きる決意を示した歴史的な転換点でした。当時の英国には反ドイツ感情が根強く残っており、ドイツ系の血を引く彼が受け入れられるためには、こうした『身を削るような』証明が必要だったのです。」
「オレンジの箱」での脱出:流転の幼少期と孤独な青年時代
フィリップ殿下の生涯を語る上で欠かせないのが、そのあまりにもドラマチックな幼少期です。「王子」という華やかな響きからは想像もつかないほど、彼の少年時代は喪失と孤独に彩られていました。ここでは、彼の人格の核となった「サバイバル」の歴史を深掘りします。
ギリシャ王家からの亡命と「段ボール(オレンジ箱)のベッド」
1922年、フィリップ殿下がわずか1歳のとき、ギリシャではクーデターが発生しました。父アンドレアス王子は革命軍に捕らえられ、処刑寸前の状態に追い込まれます。この絶体絶命の危機を救ったのは、英国海軍でした。当時の英国王ジョージ5世の命を受けた軽巡洋艦「カリプソ」が、一家を救出するために派遣されたのです。
脱出の際、幼いフィリップ王子を入れるためのベビーベッドを用意する余裕などありませんでした。そこで使われたのが、船に積まれていた「オレンジを運ぶための木箱」でした。このエピソードは、彼の人生の原点として語り継がれています。
王族としての特権をすべて剥奪され、着の身着のままでフランスへと逃れた一家。この「オレンジの箱」での船旅は、彼がその後生涯背負うことになる「根無し草(rootless)」としての運命の始まりを象徴していました。彼は後に、自らの出自について問われた際、「私はギリシャで生まれたが、ギリシャ人ではない。デンマーク王家の血を引いているが、デンマーク人でもない」と、複雑な心境を吐露しています。
両親の離婚と母の入院:家族を失った少年時代
亡命先のフランス・パリでの生活は、経済的にも精神的にも苦しいものでした。一家の精神的な支柱であった母アリス妃は、度重なる心労から統合失調症を患い、宗教的な妄想に取り憑かれるようになります。そして1930年、フィリップが9歳のとき、母は強制的にスイスの療養所へ入院させられました。
時を同じくして、父アンドレアス王子は愛人と共に南フランスへ移住し、事実上の育児放棄状態となりました。さらに、4人の姉たちは全員、次々とドイツの貴族のもとへ嫁いでいきました。
こうして、わずか数年の間にフィリップ少年は家族全員を失いました。家もなく、両親もなく、帰るべき国もない。彼は英国の親戚の家を転々とし、学校の休暇になっても迎えに来る人が誰もいないという孤独を味わいました。当時の彼を知る親戚は、「彼は常に誰かの署名入りの写真を持ち歩いていた。それが彼の唯一の家族だった」と語っています。
厳格な教育:母校ゴードンストウンでの生活と人格形成
孤独な少年を救い、その精神を鍛え上げたのが、スコットランドにある寄宿学校「ゴードンストウン」でした。教育者クルト・ハーンによって創設されたこの学校は、極めて厳格な規律と、肉体的な鍛錬を重視する教育方針で知られていました。
- 冷水シャワーでの朝の洗面
- 早朝のランニング
- 自分たちで建物を修繕する労働奉仕
- 海での救助訓練
現代の基準から見れば過酷とも言えるこの環境が、フィリップ少年には合っていました。彼はここで、自分の身は自分で守ること、困難に立ち向かう精神力、そしてリーダーシップを学びました。彼は後に、この学校の精神的支柱である「守護者(Guardian)」と呼ばれる生徒代表(ヘッドボーイ)を務めるまでになります。
ゴードンストウンでの経験は、後に彼が創設する「エディンバラ公賞」の理念にも色濃く反映されています。「若者は、困難な状況下で自らの限界に挑戦することで成長する」という信念は、まさに彼自身の体験から生まれたものでした。
英国王室文化研究家のアドバイス
「幼少期に『帰るべき家』を持たなかったフィリップ少年は、自らの力で居場所を作る必要がありました。彼の特徴である『率直すぎる物言い』や『強靭な精神力』は、誰にも頼れなかったこの時期に培われた生存戦略と言えるでしょう。彼は同情を嫌い、自らの不遇を嘆くことを決してしませんでした。その『鉄の意志』こそが、後に世界で最も有名な女性であるエリザベス女王を支えるための、最強の武器となったのです。」
エリザベス女王との愛の軌跡:海軍士官から「女王の夫」へ
フィリップ殿下の人生における最大の転機、それはエリザベス女王との出会いでした。二人のロマンスは、単なるおとぎ話ではありません。それは、将来有望な海軍士官としてのキャリアを捨て、誇り高い男性が「妻の陰」として生きることを受け入れるまでの、葛藤と決断の物語でした。
運命の再会:13歳の王女が恋した金髪の海軍士官
二人の運命が大きく動き出したのは、1939年7月のことでした。ジョージ6世一家がダートマス海軍兵学校を視察に訪れた際、案内役を任されたのが、当時18歳の士官候補生フィリップでした。
背が高く、金髪で、碧眼の美青年。テニスコートのネットを軽々と飛び越える運動神経抜群の彼に、当時13歳だったエリザベス王女は一瞬で恋に落ちました。王女の家庭教師は、その時の様子を「彼女は彼から目を離すことができなかった」と記しています。
それ以来、二人の間には頻繁な手紙のやり取りが始まりました。第二次世界大戦中、フィリップが地中海や太平洋の戦線に出ている間も、王女は彼の写真を部屋に飾り、帰りを待ち続けました。フィリップにとって、最初は「親戚の可愛い少女」に過ぎなかったエリザベスでしたが、彼女の揺るぎない想いと、文通を通じて見せる知性に、次第に惹かれていったのです。
反対を押し切っての結婚と「マウントバッテン」への改姓
戦後、二人の結婚話が持ち上がりましたが、そこには大きな壁が立ちはだかりました。王室や政府の一部から、フィリップに対する猛烈な反対論が噴出したのです。
- 「どこの馬の骨とも知れない」: ギリシャ王家出身とはいえ、亡命生活を送る無一文の王子であったこと。
- 「ドイツとの繋がり」: 彼の姉たちがドイツのナチス高官と結婚していたこと。
- 「粗野な振る舞い」: 英国紳士のような洗練されたマナーに欠け、率直すぎること。
しかし、エリザベス王女の意志は固く、父王ジョージ6世を説得しました。フィリップもまた、この結婚のために大きな代償を払いました。ギリシャ正教から英国国教会への改宗、そして王位継承権の放棄です。彼は母方の姓を英語化した「マウントバッテン」を名乗り、英国海軍大尉フィリップ・マウントバッテンとして、1947年11月20日、ウェストミンスター寺院で結婚式を挙げました。
戴冠式での誓い:海軍への未練と王配としての覚悟
結婚からわずか5年後の1952年、ジョージ6世が急逝し、エリザベスが25歳の若さで女王に即位しました。これは、フィリップにとって「自由な生活」の終わりを意味していました。
彼は海軍での出世を夢見ており、将来的には第一海軍卿(制服組のトップ)になることを目指していました。しかし、女王の夫となれば、軍務を続けることは不可能です。彼は愛する妻のために、生きがいであった仕事を辞めざるを得ませんでした。当時、彼は知人に「まるで世界が崩れ落ちたようだ」と漏らしたと言われています。
1953年の戴冠式で、フィリップ殿下は女王の前にひざまずき、こう誓いました。
「私、エディンバラ公フィリップは、あなたの忠実なる臣下となり、あなたを敬い、この身を捧げてお仕えすることを誓います」
これは、夫としてだけでなく、女王の最初の臣下として生きるという、公的な宣言でした。妻の後ろを3歩下がって歩く生活。家庭内でも妻が「君主」であるという逆転現象。当時の保守的な男性社会において、これがいかに屈辱的で、かつ困難なことであったかは想像に難くありません。
英国王室文化研究家のアドバイス
「英国憲法上、女王の夫(Consort)には公的な地位も、規定された職務もありません。前例のない中で『王室の近代化』という新たな役割を自ら創り出した点に、フィリップ殿下の真の革新性があります。彼は『ただの飾り物にはならない』と決意し、王室の領地管理の効率化や科学技術の振興など、自分にしかできない仕事を見つけていきました。そのエネルギーの源泉は、皮肉にも海軍でのキャリアを絶たれたことによる、やり場のない情熱だったのかもしれません。」
伝統との闘い:フィリップ殿下が主導した王室の近代化
フィリップ殿下は、古い慣習に縛られた英国王室に「新しい風」を吹き込んだ改革者でもありました。彼は持ち前の合理主義と好奇心で、王室を現代社会に適応させるための数々のプロジェクトを主導しました。
戴冠式のテレビ中継を実現させた革新的な視点
1953年のエリザベス女王の戴冠式において、フィリップ殿下は「テレビ中継」を強く主張しました。当時のチャーチル首相や王室の重臣たちは、「神聖な儀式を見世物にするのか」と猛反対しました。しかしフィリップ殿下は、「国民に見えない王室は、やがて忘れ去られる」と反論し、女王を説得しました。
結果として、戴冠式の中継は世界中で爆発的な視聴者数を記録し、王室と国民の距離を一気に縮めることに成功しました。これは、メディア時代の王室のあり方を決定づけた歴史的な英断でした。
「エディンバラ公賞」の創設と若者支援への情熱
彼が最も情熱を注いだライフワークの一つが、1956年に創設した「エディンバラ公賞(The Duke of Edinburgh’s Award)」です。これは、14歳から24歳までの若者が、奉仕活動、スポーツ、スキル習得、冒険旅行などに挑戦し、一定の基準を達成すると表彰されるプログラムです。
この賞は世界140カ国以上に広まり、数百万人の若者が参加しています。自身のゴードンストウンでの経験に基づき、「教室では学べない生きる力」を育むことを目的としたこのプログラムは、彼の教育に対する深い関心と、次世代への期待を象徴するレガシーとなりました。
科学技術と自然保護(WWF)への深い関心と貢献
フィリップ殿下は、科学技術や環境問題にも早くから関心を寄せていました。彼は英国科学振興協会の会長を務め、産業界と科学界の橋渡し役として奔走しました。また、世界自然保護基金(WWF)の初代総裁およびインターナショナル会長を長年務め、環境保護活動の重要性を世界に訴え続けました。
狩猟を嗜む一方で、絶滅危惧種の保護を訴える姿勢には矛盾を指摘する声もありましたが、彼が環境問題を国際的なアジェンダに押し上げた功績は計り知れません。
その人柄と素顔:ユーモア、失言、そして家族への愛
フィリップ殿下といえば、メディアで度々取り上げられた「失言」が有名です。しかし、それらの言葉の裏には、彼独特のユーモアと哲学がありました。ここでは、公式行事の堅苦しさを嫌った彼の人間味あふれる素顔に迫ります。
有名な「失言」集:悪気のないジョークか、毒舌か?
殿下の発言は、しばしば「ポリティカル・コレクトネス」の境界線を踏み越え、物議を醸しました。しかし、その多くは悪意からではなく、緊張した場の空気を和ませようとする彼なりのサービス精神や、形式ばった儀礼への皮肉から出たものでした。
- オーストラリアにて(2002年): アボリジニのビジネスマンに対し「まだ槍を投げ合っているのかね?」と発言。
- 中国訪問中(1986年): 英国人留学生に「ここに長く居すぎると、目が細くなってしまうぞ」とジョークを飛ばす。
- 不況下の英国で(1981年): 「以前は皆『もっと休みが欲しい』と言っていたのに、今は『仕事がない』と嘆いている。人間というのは何と気まぐれなものか」
これらの発言は確かに不適切と批判されましたが、同時に多くの英国国民は、彼の飾らない率直さや、「おじいちゃんのきわどい冗談」として愛着を持って受け止めていた側面もあります。彼は決して謝罪しませんでしたが、それは「言ったことは取り消せない」という彼なりの誠実さの裏返しでもありました。
多彩な趣味人:馬車競技(ドライビング)への情熱と油絵
殿下は多趣味で知られていました。特に有名だったのが、4頭立ての馬車を操る「馬車競技(キャリッジ・ドライビング)」です。関節炎でポロ(馬に乗って行う球技)ができなくなった50代から本格的に始め、国際ルールの策定にも関わるほどのめり込みました。
また、芸術的な才能もあり、油絵を嗜んでいました。彼の描く絵は、風景画や妻である女王の肖像画など、繊細で温かみのあるタッチが特徴でした。さらに、書斎には膨大な蔵書があり、宗教哲学や鳥類学に関する本を読み耽る知的な一面も持っていました。
父親としてのフィリップ:チャールズ国王との確執と和解
家庭人としてのフィリップ殿下は、典型的な「昭和の頑固親父」のような存在でした。特に、繊細で芸術肌の長男チャールズ(現国王)との関係は複雑でした。殿下はチャールズをたくましい男に育てようと、自身の母校であるスパルタ式のゴードンストウンに入学させましたが、チャールズにとってはそれがトラウマとなり、親子の溝を深める原因となりました。
しかし、晩年になるにつれて二人の関係は変化しました。王室の運営や環境問題への取り組みを通じて共通の理解を深め、チャールズ国王は父の最期の日々に頻繁に見舞いに訪れています。殿下の死後、チャールズ国王は「親愛なるパパは、特別な存在だった」と涙ながらに語り、父への深い敬愛を示しました。
英国王室文化研究家のアドバイス
「殿下の発言はしばしば物議を醸しましたが、現地取材で見えてくるのは、緊張した場の空気を和ませようとする彼なりの配慮です。堅苦しい儀礼を嫌い、相手を笑わせようとするサービス精神が、時に誤解を生んだ側面も見逃せません。彼は『退屈な人間だと思われるよりは、失礼な人間だと思われたほうがマシだ』と考えていた節があります。その人間臭さこそが、完璧を求められる女王の隣で、バランスを取るための不可欠な要素だったのです。」
晩年と最期:自らデザインした葬儀と「ランドローバー」
2017年に公務を引退した後、フィリップ殿下は静かな余生を過ごしました。そして人生の幕引きにおいても、彼は自分らしさを貫きました。
公務引退後の穏やかな日々:サンドリンガムでの生活
引退後、殿下はロンドンのバッキンガム宮殿を離れ、ノーフォーク州にあるサンドリンガム・ハウスの敷地内にある「ウッド・ファーム」という小さな邸宅で過ごしました。そこでは、形式ばった服装ではなく、リラックスした服装で読書や絵画を楽しみ、旧友を招いて過ごすという、彼が長年夢見ていた「普通の生活」がありました。
コロナ禍においてはウィンザー城に戻り、女王と共に隔離生活を送りました。皮肉にも、このパンデミックによるロックダウンが、多忙を極めた二人が夫婦水入らずでゆっくりと過ごす最後の時間を与えてくれました。
99歳での崩御と「オペラ・フォース・ブリッジ」計画
2021年4月9日朝、フィリップ殿下はウィンザー城で静かに息を引き取りました。99歳でした。彼の死に伴い、長年準備されていた葬儀計画コードネーム「フォース・ブリッジ(Forth Bridge)」が発動されました。
彼は生前、「騒ぎ立てられるのはごめんだ」と語っており、国葬ではなく、より規模の小さい王室の葬儀を希望していました。コロナ禍の影響もあり、参列者はわずか30名に限定されましたが、それがかえって彼の望んだ「家族だけの別れ」を実現することになりました。
世界を驚かせた特注ランドローバー霊柩車と葬儀の演出
葬儀で最も注目を集めたのは、殿下の棺を運んだ霊柩車でした。それは、彼自身が16年以上かけて設計・改造に関わった、ランドローバー「ディフェンダー」の特別仕様車でした。軍用車のような武骨なデザインと、彼が選んだ「ダークブロンズグリーン」の塗装は、彼の質実剛健な性格と軍人としての誇りを象徴していました。
また、葬儀で流された音楽や聖書の朗読箇所もすべて彼自身が選定しており、そこには「海軍への愛」と「神への信仰」が色濃く反映されていました。最後まで自分のスタイルを貫いたその去り際は、世界中に強烈な印象を残しました。
英国王室文化研究家のアドバイス
「金婚式で女王が語った『彼は私の強さであり、支え(Strength and Stay)』という言葉。これこそが、70年以上、一歩下がって女王を立て続けた彼の生涯に対する、最高の評価であり真実です。葬儀の日、チャペルの席に一人で座る女王の小さくなった姿は、彼女にとってフィリップ殿下がどれほど大きな存在であったかを、痛いほど物語っていました。」
フィリップ殿下に関するよくある質問 (FAQ)
最後に、フィリップ殿下について検索されることが多い疑問に、簡潔にお答えします。
Q. フィリップ殿下の死因は何ですか?
公式発表によると、死因は「老衰」です。崩御の約1ヶ月前に心臓の手術を受けて入院していましたが、退院後はウィンザー城に戻り、最期は女王に見守られながら安らかに旅立ったと伝えられています。
Q. ドラマ『ザ・クラウン』での浮気描写は実話ですか?
Netflixのドラマ『ザ・クラウン』では、殿下の浮気や不貞を示唆するシーンが描かれていますが、これらはあくまでフィクションであり、確たる証拠はありません。確かに若い頃の殿下は女性に人気があり、女優や貴族女性との噂が報じられたこともありましたが、実際に不貞行為があったと証明されたことは一度もありません。側近たちは一貫してこれらの噂を否定しています。
Q. 彼はなぜ「国王(King)」と呼ばれなかったのですか?
英国の王室法において、国王の妻は「王妃(Queen)」と呼ばれますが、女王の夫は「国王(King)」にはなれません。「King」という称号は君主そのものを指すため、女王よりも上位と見なされるのを避けるためです。そのため、彼は「王配(Prince Consort)」という立場に留まり、後に女王から「プリンス(Prince)」の称号を授与されました。
Q. 日本皇室との関係や来日エピソードはありますか?
フィリップ殿下は数回来日しています。特に1975年にエリザベス女王と共に国賓として来日した際は、新幹線に乗車したり、伊勢神宮を参拝したりしました。また、昭和天皇や現在の上皇ご夫妻とも親交があり、日本の皇室とも深い関わりを持っていました。1989年の昭和天皇の「大喪の礼」にも参列しています。
まとめ:歴史の証人として生きたフィリップ殿下のレガシー
フィリップ殿下の99年の生涯は、激動の20世紀そのものでした。ギリシャからの亡命という不遇のスタートから、世界最強の君主であるエリザベス女王の夫として、その生涯を全うしました。
彼の人生は、「伝統」と「革新」、「個人の自由」と「公的な義務」の間での絶え間ない闘いでした。しかし、彼はその闘いから逃げることなく、ユーモアと鉄の意志で乗り越え、王室という古い組織を現代に繋ぎ止めるための「錨(いかり)」の役割を果たしました。
彼がいなければ、現在の英国王室の姿は全く違ったものになっていたでしょう。彼の物語を知ることは、単なる王室ゴシップを楽しむことではなく、義務と愛に生きた一人の人間の尊厳に触れることなのです。
フィリップ殿下を知るためのチェックリスト
- [ ] ギリシャ王家からの亡命と「オレンジの箱」の歴史を理解した
- [ ] エリザベス女王との73年に及ぶ夫婦の絆の深さを知った
- [ ] テレビ中継導入やエディンバラ公賞など、王室近代化への貢献を確認した
- [ ] 「失言」の裏にあるユーモアや、隠された人間性を知った
- [ ] 海軍キャリアを捨てて「女王の支え」に徹した生き方に触れた
ぜひ、ニュースや映像で英国王室を目にする際は、女王の隣にいたこの「鉄の意志」を持った男性のことを思い出してみてください。
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