ビジネスの現場において、取引先との間で「売掛金」と「買掛金」が同時に発生することは珍しくありません。このような状況で、現金の移動を伴わずに決済を完了させる法的手続きが「相殺(そうさい)」です。
相殺は、単なる決済手段にとどまらず、取引先の経営状況が悪化した際に、自社の債権を回収不能リスクから守るための強力な防衛策としても機能します。しかし、正しく行うためには「自働債権・受働債権」といった専門用語の理解や、民法が定める厳格な要件(相殺適状)をクリアしなければなりません。
この記事では、企業法務と会計実務の両面に精通した専門家が、相殺の基礎知識から、トラブルを防ぐための通知書の書き方、そして経理担当者が迷いやすい仕訳や領収書の印紙ルールまでを網羅的に解説します。
この記事でわかること
- 「自働債権・受働債権」など、相殺に必要な4つの法的要件(相殺適状)
- トラブルを防ぐ「相殺通知書」の書き方テンプレートと内容証明の送り方
- 領収書の印紙は?仕訳は?経理担当者が知るべき実務処理のすべて
正しい知識を身につけ、資金繰りの改善とリスク管理に役立ててください。
相殺(そうさい)の基礎知識とビジネスにおける重要性
まずは、「相殺」という言葉の正確な意味と、なぜビジネスにおいてこの手続きが重要視されるのか、そのメリットを整理しましょう。法的な定義を正しく理解することが、実務でのミスを防ぐ第一歩です。
相殺の読み方と意味(日常用語と法律用語の違い)
「相殺」は、一般的に「そうさい」と読みます。慣用的に「そうさつ」と読まれることもありますが、ビジネスや法律の場では「そうさい」が正しい読み方です。
日常用語としての相殺は、「プラスとマイナスを打ち消し合う」「長所と短所が相殺される」といった意味で使われます。一方、法律用語(民法)における相殺は、より厳密な定義を持っています。
民法第505条において、相殺とは「二人が互いに同種の目的を有する債務を負担する場合において、双方の債務が弁済期にあるときに、各債務者が対当額についてその債務を免れること」を指します。簡単に言えば、A社がB社に100万円の売掛金を持ち、B社もA社に100万円の売掛金を持っている場合、お互いに「チャラにしましょう」という意思表示をすることで、現金のやり取りなしに債務を消滅させる制度です。
ビジネスで相殺を活用する3つのメリット(キャッシュフロー・手間・リスク回避)
企業経営において相殺を積極的に活用すべき理由は、主に以下の3点に集約されます。
- キャッシュフローの改善(資金繰り支援)
相殺を行うことで、本来支払うべき現金を外部に流出させずに済みます。例えば、支払手形を切ったり銀行振込を行ったりする必要がなくなるため、手元の資金(キャッシュ)を温存できます。特に資金繰りが厳しい局面では、現金の流出を防ぐことは生命線となります。 - 決済コストと手間の削減
銀行振込手数料の節約や、振込手続きにかかる事務作業時間を削減できます。件数が多ければ多いほど、このコスト削減効果は大きくなります。 - 債権回収リスクの回避(担保的機能)
これが最も重要なメリットです。もし取引先が倒産した場合、通常の債権回収手続き(配当など)では、債権の数%しか戻ってこないことが一般的です。しかし、相殺を行えば、自分が支払うべき買掛金と相殺する形で、実質的に100%の債権回収(優先弁済)を受けたのと同じ効果が得られます。相殺は「最強の担保」とも呼ばれる理由がここにあります。
「法定相殺」と「合意相殺」の違いとは?
相殺には、大きく分けて「法定相殺(ほうていそうさい)」と「合意相殺(ごういそうさい)」の2種類があります。実務ではこの違いを理解していないと、「相殺できると思っていたのにできなかった」という事態に陥りかねません。
以下の比較表で、それぞれの特徴を確認してください。
| 項目 | 法定相殺(単独行為) | 合意相殺(契約行為) |
|---|---|---|
| 定義 | 民法の要件を満たしたときに、一方的な意思表示で行う相殺。 | 当事者双方が話し合い、合意(契約)によって行う相殺。 |
| 相手の同意 | 不要(相手が嫌がっても可能) | 必要(双方の納得が必要) |
| 要件 | 民法505条の「相殺適状」を厳格に満たす必要がある。 | 公序良俗に反しない限り、自由な条件で設定可能(弁済期前でも可)。 |
| 活用シーン | 相手との関係が悪化している場合や、相手の倒産リスクが高い緊急時。 | 継続的な取引関係があり、事務効率化を図る場合(相殺契約書の締結など)。 |
通常、トラブル解決や債権回収の文脈で語られる「相殺」は、相手の同意がなくても実行できる「法定相殺」を指すことがほとんどです。本記事でも、主にこの法定相殺の手続きについて深掘りしていきます。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「経営者が相殺を検討すべきタイミングは、『取引先の支払いが遅れ始めたとき』です。相手からの入金がないのに、こちらからの支払期日が迫っている場合、漫然と支払ってはいけません。その支払いを止めて相殺の準備をすることが、自社の資金を守る鉄則です。相手が倒産してからでは遅いケースもあるため、予兆を感じたら即座に専門家へ相談し、相殺の可否を判断してください。」
【図解でわかる】相殺ができる条件「相殺適状」とは?
相手の同意なく、一方的に相殺を通知して効力を発生させるためには、民法で定められた条件をすべて満たしている必要があります。この状態を法律用語で「相殺適状(そうさいてきじょう)」と呼びます。
相殺適状を理解するためには、まず「自働債権」と「受働債権」という2つの概念を明確に区別する必要があります。
そもそも「自働債権」と「受働債権」とは?(どちらが言い出すか)
相殺の話では、必ず「自働債権(じどうさいけん)」と「受働債権(じゅどうさいけん)」という言葉が登場します。漢字が似ていて混乱しやすいですが、「誰から見て、相殺を言い出したか」を基準に考えると分かりやすくなります。
- 自働債権(じどうさいけん):
相殺を「しようとする側(自分)」が持っている債権です。「自分から働きかける(アクションを起こす)債権」と覚えましょう。
(例:あなたが相手に対して持っている「売掛金」) - 受働債権(じゅどうさいけん):
相殺を「される側(相手)」が持っている債権です。言い換えれば、あなたが相手に対して負っている「債務(借金)」のことです。「受け身の債権」と覚えましょう。
(例:あなたが相手に対して支払わなければならない「買掛金」)
相殺とは、自分の持っている「自働債権」を使って、自分の負っている「受働債権」を消滅させる行為です。
民法505条が定める「相殺適状」4つの要件
法的に有効な相殺を行うためには、以下の4つの要件がすべて揃っていなければなりません。一つでも欠けていると、相手から「相殺は無効だ」と反論される可能性があります。
▼詳細解説:4つの要件をチェック(クリックして開く)
1. 二人が互いに同種の目的を有する債務を負担していること
「金銭債権同士」であることが最も一般的です。例えば、「売掛金(お金)」と「貸付金(お金)」は相殺できます。しかし、「お金を払う義務」と「商品を納品する義務(物の引き渡し)」は種類が違うため相殺できません。
2. 双方の債務が弁済期にあること
原則として、「自働債権(自分の債権)」の支払期限が到来していることが必要です。自分の債権がまだ請求できない状態(期限前)なのに、相手に対して「借金をチャラにしろ」とは言えないからです。
一方で、「受働債権(自分の借金)」については、期限が来ていなくても相殺可能です。なぜなら、期限が来る前に借金を返すこと(期限の利益の放棄)は、自分の自由だからです。
3. 債務が性質上相殺できるものであること
法律上、あるいは契約の性質上、相殺がなじまないものは除外されます。例えば、「これから働くこと(労働債務)」を金銭債権と相殺することは、強制労働につながるためできません。
4. 相殺が禁止されていないこと
法律で相殺が禁止されている場合(不法行為による損害賠償請求権など)や、当事者間で「相殺禁止特約」を結んでいる場合は相殺できません。これについては後述のセクションで詳しく解説します。
弁済期の到来は必須?「期限の利益」を放棄できるケース
相殺適状の要件の中で、最も判断に迷うのが「弁済期(支払期限)」の問題です。
前述の通り、自働債権(自分が持っている債権)は、必ず弁済期が到来していなければなりません。まだ返済日が来ていないのに、「今すぐ返せ」と言って相殺することはできないのです。
しかし、受働債権(自分が払うべき債務)については、弁済期が到来していなくても相殺が可能です。これを法律用語で「期限の利益の放棄」といいます。借金をしている側は、「期限までは返さなくていい」という利益(権利)を持っていますが、その利益を自ら捨てて、「期限前だけど今すぐ返します(相殺します)」とすることは自由だからです。
つまり、「相手への請求権は期限が来ているが、自分への請求書はまだ期限前」という状態であれば、相殺を仕掛けることができます。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「相手の経営危機時には、『期限の利益喪失条項』が鍵になります。契約書に『差押えを受けたり、破産申立てがあった場合は、直ちに期限の利益を失う(=即座に全額返済しなければならない)』という条項が入っていれば、本来の支払日がまだ先であっても、その事実が発生した瞬間に弁済期が到来したとみなされます。これにより、自働債権の弁済期要件をクリアし、即座に相殺が可能になるのです。取引基本契約書を見直す際は、この条項がしっかり入っているか必ず確認してください。」
【テンプレート付】法的に有効な「相殺通知書」の書き方と手順
相殺の要件(相殺適状)が整っていることを確認したら、次は相手に対して「相殺します」という意思表示を行う必要があります。民法上、相殺は相手への意思表示によって効力を生じます。口頭でも成立はしますが、ビジネス実務では必ず書面で行います。
ここでは、トラブルを確実に防ぐための通知書の作成方法と送付手順を解説します。
なぜ「内容証明郵便」で送る必要があるのか?(証拠保全と確定日付)
相殺通知は、普通郵便やメールではなく、必ず「内容証明郵便(配達証明付き)」で送るべきです。これには明確な理由があります。
- 「いつ」「誰が」「どのような内容」を送ったかを公的に証明するため
相殺通知を送った後、相手が「そんな通知は見ていない」「届いていない」としらを切るリスクを防ぎます。 - 確定日付を取得するため
もし相手の債権が第三者に譲渡されたり、差押えられたりした場合、相殺の優劣は「第三者対抗要件(確定日付のある通知の到達)」の先後で決まることがあります。法的紛争に発展した際、内容証明郵便の記録は決定的な証拠となります。
そのまま使える!相殺通知書の文面テンプレート
以下に、汎用的に使える相殺通知書のテンプレートを用意しました。これをコピーして、自社の状況に合わせて書き換えて使用してください。
▼相殺通知書サンプル(コピー用・クリックして開く)
通知書
令和〇年〇月〇日
〇〇県〇〇市〇〇町〇丁目〇番〇号
株式会社〇〇
代表取締役 〇〇 〇〇 殿
東京都〇〇区〇〇町〇丁目〇番〇号
株式会社〇〇
代表取締役 〇〇 〇〇 印
冠省
当職は、貴社に対して有する下記1の債権(自働債権)と、貴社が当職に対して有する下記2の債権(受働債権)とを、対当額にて相殺いたします。
つきましては、下記1の債権額と下記2の債権額の差額金〇〇円を、令和〇年〇月〇日限り、当職指定の下記銀行口座へお振込みください。
(※全額相殺されて残額がない場合は、この段落は不要です。「これにより、双方の債権債務は全額消滅いたしました」等の文言に変更してください。)
記
1.自働債権(当職が貴社に対して有する債権)
債権の種類:売掛金
発生日:令和〇年〇月〇日
請求書番号:No.〇〇〇〇
金額:金〇〇〇,〇〇〇円
2.受働債権(貴社が当職に対して有する債権)
債権の種類:買掛金
発生日:令和〇年〇月〇日
金額:金〇〇〇,〇〇〇円
以上
通知書を送付するまでの具体的なステップ(作成・郵便局・到達確認)
- 通知書の作成
上記のテンプレートを基に、Word等で通知書を作成します。内容証明郵便には「1行20字以内、1枚26行以内」などの厳格な書式ルールがあるため、郵便局の指定する形式に合わせて調整してください。同じものを3通(相手用、郵便局保管用、自社控え用)用意します。 - 郵便局での手続き
内容証明を取り扱っている郵便局(集配郵便局など)の窓口へ行きます。「内容証明郵便」として差し出し、必ず「配達証明」のオプションを付けてください。これが「相手に届いた日時」の証明になります。 - 到達の確認と証拠保存
後日、郵便局から「配達証明書(ハガキ)」が送られてきます。これには相手が受け取った日付が記載されています。このハガキと、通知書の控えをセットにして、重要書類として厳重に保管してください。
相殺の効果はいつ発生する?(遡及効の解説)
相殺通知が相手に到達すると、その効力は「相殺適状になった時」にさかのぼって発生します。これを「遡及効(そきゅうこう)」と呼びます。
例えば、相殺適状になったのが4月1日で、通知が到達したのが4月10日だったとします。この場合、4月1日の時点で債権債務が消滅したことになります。そのため、4月1日から4月10日までの間の「遅延損害金(利息)」は発生しません。
この遡及効のおかげで、通知が多少遅れても、条件さえ満たしていれば利息の支払いを回避できるメリットがあります。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「過去のトラブル事例で多かったのが、『電話で相殺の話をつけて安心してしまう』ケースです。口頭合意も有効ですが、後になって相手が破産管財人の管理下に入った際、『そんな合意の記録はない』と否認され、改めて支払いを請求されることがあります。どんなに親しい間柄でも、金銭が絡む相殺処理は必ず『書面』を残すことが、自分の会社を守る唯一の方法です。」
経理担当者必見!相殺の仕訳処理と領収書・印紙のルール
法的な手続きが完了しても、社内の経理処理が終わらなければ実務は完了しません。「お金が動いていないのに、どう仕訳を切ればいいのか?」「領収書は必要なのか?」といった、経理担当者が抱える疑問を解消します。
売掛金と買掛金を相殺した場合の仕訳パターン
相殺の仕訳は、基本的には「売掛金」と「買掛金」を消し込む処理になります。現預金の動きがないため、「借方」と「貸方」にそれぞれの科目を記載します。
ケース1:売掛金と買掛金が同額の場合(全額相殺)
(例:売掛金100万円と買掛金100万円を相殺した)
| 借方 | 金額 | 貸方 | 金額 | 摘要 |
|---|---|---|---|---|
| 買掛金 | 1,000,000 | 売掛金 | 1,000,000 | 〇〇社との相殺 |
ケース2:売掛金の方が多く、差額を受け取る場合
(例:売掛金100万円に対し、買掛金30万円を相殺し、差額70万円が振り込まれた)
| 借方 | 金額 | 貸方 | 金額 | 摘要 |
|---|---|---|---|---|
| 買掛金 | 300,000 | 売掛金 | 300,000 | 〇〇社との相殺 |
| 普通預金 | 700,000 | 売掛金 | 700,000 | 売掛金入金 |
ケース3:買掛金の方が多く、差額を支払う場合
(例:売掛金100万円に対し、買掛金150万円を相殺し、差額50万円を振り込んだ)
| 借方 | 金額 | 貸方 | 金額 | 摘要 |
|---|---|---|---|---|
| 買掛金 | 1,000,000 | 売掛金 | 1,000,000 | 〇〇社との相殺 |
| 買掛金 | 500,000 | 普通預金 | 500,000 | 買掛金支払 |
相殺に領収書は発行すべき?(発行義務の有無)
結論から言うと、相殺した金額について領収書を発行する法的な義務はありません。
領収書は通常、「金銭の受領」を証明するために発行されるものです。相殺は「金銭の移動なしに債務を消滅させる」手続きであり、実際にお金を受け取っていないため、領収書を発行しなくても問題ありません。
ただし、商慣習として、お互いの仕訳処理の証拠(エビデンス)を残すために、領収書を交換し合うケースはよくあります。
領収書を発行する場合、収入印紙は必要か?(第17号文書の特例)
ここが最も間違いやすいポイントです。もし相殺の事実を証明するために領収書を発行する場合、相殺金額に対応する収入印紙は不要です。
印紙税法上、領収書(第17号文書)は「金銭の受取事実」に対して課税されます。相殺は金銭の受取がないため、課税対象になりません。
ただし、これには重要な条件があります。領収書の但し書きに「上記金額を売掛金と相殺」と明記することです。この記載がないと、通常の領収書とみなされ、印紙税がかかってしまう可能性があります。
【注意】一部を現金で受け取った場合
相殺と同時に一部現金を受け取った場合は、「現金で受け取った金額」に対してのみ印紙税の判定を行います。相殺部分は印紙税の対象外です。
「相殺領収書」の但し書きの正しい書き方
税務調査で指摘されないよう、但し書きは以下のように具体的に記載してください。
- 全額相殺の場合:
「但し、〇月分買掛金と相殺として(印紙税対象外)」 - 一部相殺・一部入金の場合:
「但し、商品代金として。内、〇〇円は買掛金と相殺、〇〇円は振込入金」
※この場合、振込入金分の金額が5万円以上であれば、その金額に応じた印紙が必要です。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「税務調査において、印紙の貼り忘れは頻繁にチェックされる項目です。相殺領収書を発行する際は、必ず『相殺である旨』を明記し、ダブルチェックを行ってください。また、そもそも領収書を発行せず、『相殺通知書』や『相殺計算書』を保存することで、取引の証憑(しょうひょう)とする運用も合理的でおすすめです。」
注意!相殺が禁止・制限されるケースとリスク
相殺は強力な権利ですが、どんな場合でも使えるわけではありません。法律によって相殺が禁止されているケースや、制限されるケースがあります。これを知らずに相殺を行うと、法的に無効となるだけでなく、損害賠償請求を受けるリスクもあります。
不法行為による損害賠償債権を受働債権とする場合(被害者保護)
「悪いことをして損害を与えた側」が、被害者に対して持っている債権を使って相殺することは原則として禁止されています。
例えば、AさんがBさんを殴って怪我をさせ、治療費100万円の損害賠償義務(受働債権)を負ったとします。このとき、AさんがBさんに以前貸していた100万円(自働債権)があったとしても、「これでチャラにしよう」と相殺することはできません。
これは、被害者(Bさん)に現実に治療費を受け取らせて救済する必要があるためです。ただし、人の生命・身体を害するものでない不法行為については、一部例外もあります。
差押えを受けた債権と相殺の対抗要件
取引先の債権が、税務署や他の債権者によって「差押え」られた場合、相殺ができるかどうかが問題になります。
民法511条により、「差押え前に取得していた債権」であれば、差押え後であっても相殺により対抗(優先回収)することができます。しかし、「差押え後に取得した債権」では相殺できません。
つまり、差押えの通知が届いてから慌てて他から債権を買い取ってきても、相殺は認められないということです。この判断基準は非常に微妙なため、差押え通知が届いた時点で専門家に相談することを強く推奨します。
支払指図禁止特約がある場合
預金債権など、特定の債権については契約で「支払指図禁止」や「譲渡禁止」などの特約がついている場合があります。このような債権を自働債権として相殺しようとする場合、相手方が悪意(知っていた)か重過失がある場合を除き、相殺が制限される可能性があります。
時効にかかった債権でも相殺できるのか?(自働債権の特例)
意外に知られていないのが、「時効で消滅した債権」でも相殺に使えるという特例です(民法508条)。
自分が持っている債権(自働債権)が時効期間を過ぎてしまっていても、「時効が完成する前に相殺適状になっていた」のであれば、相殺することができます。
「あ、あの売掛金、時効になっちゃった…」と諦める前に、その時効期間中に相手への支払義務(買掛金)が発生していなかったか確認してください。もし時期が重なっていれば、相殺によって実質的に回収できる可能性があります。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「相殺禁止の判断で最も危険なのは、『労働債権(給料)』との相殺です。従業員に貸付金があるからといって、同意なく給料から天引き(一方的な相殺)をすることは労働基準法違反(全額払いの原則違反)となります。この領域は特に厳しく規制されているため、経営者の方は絶対に自己判断で行わないようにしてください。」
応用編:特殊なケースでの相殺実務
基本的な企業間取引以外の、少し特殊なシチュエーションにおける相殺についても触れておきます。
3社間での相殺(三角相殺)は可能か?
A社はB社に債権があり、B社はC社に債権があり、C社はA社に債権がある…といった「3すくみ」の状態で、3社間で相殺を行うことを「三角相殺(多角相殺)」といいます。
結論として、法定相殺(一方的な通知)では三角相殺はできません。民法の相殺は「二当事者間」を前提としているからです。
ただし、3社全員が合意する場合(合意相殺)であれば可能です。この場合は、「3社間精算合意書」などの契約書を作成し、全員が署名捺印することで、複雑な債権債務を一括で処理することができます。
破産手続・民事再生手続における相殺権の行使
取引先が破産や民事再生を申し立てた場合、債権回収は絶望的に思えますが、実は相殺権は倒産手続きにおいても強力な権利として保護されています。
倒産手続きが開始された後でも、一定期間内であれば、債権者は相殺を行うことができます。ただし、これには厳格な期限や制限(相殺禁止事由)があるため、倒産通知が届いたら、即座に弁護士等の専門家に連絡し、相殺の可否を検討する必要があります。一刻を争う事態です。
銀行取引における相殺(預金と借入金の相殺)
企業が銀行から借入れをしていて、その銀行に預金もある場合、銀行が破綻したり、企業が期限の利益を喪失したりすると、借入金と預金が相殺されることがあります。
これは銀行取引約定書に基づき行われるもので、企業側から見れば「預金が借金の返済に充てられて消滅する」ことを意味します。実務上は銀行主導で行われることが多いため、約定書の内容を把握しておくことが重要です。
相殺に関するよくある質問(FAQ)
最後に、相殺について実務担当者から頻繁に寄せられる質問に、Q&A形式で簡潔に回答します。
Q. 相手が相殺に同意してくれない場合はどうすればいいですか?
A. 法定相殺の要件を満たしていれば、相手の同意は不要です。
相手が「嫌だ」と言っても、相殺適状(4つの要件)を満たしている状態で、内容証明郵便にて相殺通知を送れば、法的に相殺は成立します。相手の承諾を待つ必要はありません。
Q. 給料から従業員の借金を相殺(天引き)することはできますか?
A. 原則としてできません。
労働基準法により、賃金は「全額を支払わなければならない」と定められています。会社が従業員に対して貸付金や損害賠償請求権を持っていても、一方的に給料から天引きすることは違法です。ただし、労使協定がある場合や、従業員の自由意思による明確な同意がある場合など、例外的に認められるケースもあります。
Q. 英語で「相殺」は何と言いますか?ビジネスメールでの表現は?
A. “Offset”(オフセット)を使います。
ビジネス英語では “We would like to offset the payment against our accounts receivable.”(支払いを売掛金と相殺させていただきたい)のように表現します。契約書では “Set-off” という用語が使われることもあります。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「海外取引において相殺(Set-off / Offset)を行う場合は、準拠法に注意が必要です。日本の民法では一方的な通知で相殺できますが、相手国の法律では認められない場合もあります。海外企業との契約書には、必ず『相殺条項(Set-off Clause)』を明記し、契約ベースで相殺が可能になるよう手当てしておくことが重要です。」
まとめ:相殺は強力な回収手段!正しく理解して資金を守ろう
相殺は、資金移動を伴わずに決済を完了させ、かつ確実に債権を回収できる、企業にとって非常に強力な武器です。特に取引先の信用不安が高まった際、相殺を知っているかどうかで、会社の資金を守れるかが決まると言っても過言ではありません。
最後に、実務担当者が明日から実践すべきポイントをチェックリストにまとめました。
- 債権・債務のペアを把握する:特定の取引先に対して、売掛金と買掛金の両方があるか常にチェックする習慣をつける。
- 契約書の確認:基本契約書に「期限の利益喪失条項」や「相殺条項」が含まれているか見直す。
- 予兆管理:取引先の支払いが遅れたら、漫然と支払いに応じず、一旦支払いを止めて相殺の可能性を検討する。
- 証拠の保全:相殺を行う際は、必ず「内容証明郵便(配達証明付)」を使用し、経理処理の証憑として保管する。
「相殺」を単なる言葉の知識として終わらせず、自社の財務体質を強化し、リスクから身を守るための実践的なスキルとして活用してください。
企業法務・会計コンサルタントのアドバイス
「債権管理の第一歩は『知ること』です。相殺という手段があることを知っているだけで、万が一の時の初動スピードが劇的に変わります。今回解説した通知書のテンプレートや仕訳例をブックマークや社内マニュアルに保存し、いざという時にすぐ動ける準備を整えておきましょう。それが、賢い経営者・実務担当者のあり方です。」
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