日本製鉄による米国の名門鉄鋼メーカー、USスチールの買収計画は、単なる一企業の経済活動を超え、日米関係や米国の政治情勢を映し出す巨大なトピックとなっています。結論から申し上げますと、この買収案件は現在、経済合理性を超えた「米国大統領選」と「労働組合」という極めて政治的な要因により、不透明な局面に立たされています。しかし、過去のクロスボーダーM&Aの事例や、対米外国投資委員会(CFIUS)の審査基準を冷静かつ専門的な視点で分析すれば、感情論に流されない現実的な「落としどころ」が見えてくるのも事実です。
本記事では、国際M&Aの最前線で長年分析を続けてきた筆者が、ニュースのヘッドラインだけでは見えてこない買収劇の深層を徹底解説します。買収を阻む構造的な「3つの壁」の正体、専門家が予測する3つの結末シナリオ、そして日本製鉄およびUSスチール株を保有する投資家がとるべき具体的な戦略について、1万字を超える詳細な分析をお届けします。
この記事を通じて、以下の3点が明確になります。
- 買収を阻む「3つの壁(労働組合・大統領選・CFIUS)」の歴史的・構造的背景
- 「成立」「条件付き承認」「破談」の各シナリオにおける発生確率とトリガー
- 不確実な局面において、個人投資家が資産を守り増やすための行動指針
日本製鉄によるUSスチール買収計画の全貌と最新タイムライン
このセクションでは、まず複雑に入り組んだ今回の買収劇の事実関係を整理します。なぜ日本製鉄はこれほどの巨額投資を決断したのか、そして発表当初は「友好的」に見えた案件がなぜここまで政治問題化したのか。現状を正しく把握するための基礎情報を、詳細なデータと共に解説します。
買収提案の概要:141億ドルの巨額投資と「1株55ドル」の意味
2023年12月、日本製鉄が発表したUSスチールの買収提案は、世界の鉄鋼業界に衝撃を与えました。その買収総額は約141億ドル(当時の為替レートで約2兆円)に達し、日本企業による対米M&Aとしても歴史的な規模となります。しかし、この金額の大きさ以上に市場関係者を驚かせたのは、日本製鉄が提示した「1株あたり55ドル」という価格設定でした。
買収発表直前のUSスチールの株価は39ドル前後で推移していました。つまり、日本製鉄は市場価格に対して約40%ものプレミアム(上乗せ幅)を提示したことになります。さらに、USスチールに対してはそれ以前に米国の同業他社からも買収提案がありましたが、その際の提示額と比較しても、日本製鉄のオファーは圧倒的に高額でした。この「1株55ドル」という価格には、日本製鉄の並々ならぬ決意と、USスチールが持つ資産価値への高い評価が込められています。
通常、M&Aにおいて40%ものプレミアムがつくことは、対象企業が持つ潜在的な成長力や、買収によって得られるシナジー効果(相乗効果)が極めて大きいと判断された場合です。日本製鉄にとって、USスチールは単なる「米国の鉄鋼会社」ではありません。鉄鉱石の鉱山を自社で保有していることによる原材料調達の安定性、そして何より、世界最大の経済大国である米国市場における「インサイダー(内部者)」としての地位を一気に獲得できるチケットなのです。
また、この買収は「全額現金」で行われる提案でした。株式交換などではなく現金を用意するということは、USスチールの既存株主にとっては、保有株を確実に現金化できる非常に魅力的な条件です。実際、USスチールの取締役会はこの提案を全会一致で支持しました。経済合理性の観点から見れば、この買収はUSスチールの株主、経営陣、そして技術力や資金力を必要とする現場にとっても、本来であれば歓迎すべき「救世主」のような案件だったのです。
【時系列まとめ】提案から株主総会承認、そして政治介入まで
当初、両社の経営陣の間では友好的に進められていたこの案件が、なぜこれほどまでに拗れてしまったのか。その経緯を時系列で追うことで、問題の本質が「経済」から「政治」へとシフトしていった過程が浮き彫りになります。
| 時期 | 出来事 | 市場・関係者の反応 |
|---|---|---|
| 2023年12月 | 日本製鉄による買収提案発表 | 買収額141億ドル、1株55ドルの条件が公表される。USスチール株価は急騰。 |
| 発表直後 | 全米鉄鋼労働組合 (USW) が反対声明 | 労働協約の継承や雇用維持に対する懸念を表明。組合側への事前連絡不足を批判。 |
| 2024年初頭 | 米政治家による懸念表明が相次ぐ | 民主・共和両党の議員から、国家安全保障上の懸念や雇用の保護を訴える声が上がる。 |
| 2024年3月 | 現職大統領による異例の声明 | 「USスチールは米国内で所有・運営されるべき」と表明。買収阻止への政治的圧力が明確化。 |
| 2024年4月 | USスチール臨時株主総会 | 圧倒的多数(98%以上)の賛成で買収提案が承認される。株主側は経済的メリットを支持。 |
| 2024年中盤 | 欧州委員会等の規制当局が承認 | 米国外の競争法(独占禁止法)審査は順次クリア。問題は米国内の手続きに絞られる。 |
| 2024年後半 | 大統領選に向けた政治対立の激化 | 共和党候補も買収阻止を明言。激戦州の票獲得競争の中で、買収反対が政治的なアピール材料となる。 |
| 現在 | CFIUS(対米外国投資委員会)審査継続中 | 安全保障上の審査が大詰めを迎える。審査期間の延長や再申請などの手続きが進行中。 |
このタイムラインから読み取れるのは、「株主(資本の論理)」と「労働組合・政治家(票と雇用の論理)」の完全な乖離です。株主総会での圧倒的な賛成多数が示す通り、ビジネスとしては成立している案件です。しかし、発表直後から労働組合が猛反発し、それが大統領選を控えた政治家たちの格好のパフォーマンス材料として利用されてしまったことが、現在の泥沼化の主因です。
特に注目すべきは、日本製鉄側がUSW(全米鉄鋼労働組合)との対話を試み、巨額の投資や雇用維持を約束したにもかかわらず、組合側の姿勢が軟化していない点です。これは、単なる条件闘争ではなく、組合指導部のメンツや、米国内に根強く残る「ラストベルト(錆びた工業地帯)」の象徴としてのUSスチールへの執着が絡んでいることを示唆しています。
国際M&Aアナリストのアドバイス
「通常、日米間のような同盟国同士のM&Aであれば、規制当局の審査は事務的に進むものです。しかし今回は、タイミングが悪すぎました。大統領選という4年に一度の政治イベントと重なったことで、純粋なビジネス案件が『愛国心』や『労働者保護』を競う政治ショーの舞台装置にされてしまったのです。私が過去に担当した案件でも、地域住民の感情を読み違えて頓挫した例がありますが、今回はその規模が国家レベルに拡大しています。投資家の皆様は、ニュースを見る際に『これは経済ニュースではなく、政治ニュースだ』という認識を持つことが重要です」
なぜ「同盟国」なのに反対?買収を阻む3つの巨大な壁
「日本は米国の最も重要な同盟国ではないのか?」「なぜ中国企業でもないのに、安全保障が問題になるのか?」多くの日本人が抱くこの疑問に対し、本セクションでは構造的な要因を深掘りします。買収を阻んでいるのは、単なる感情論だけではありません。そこには米国特有の政治力学と、法的な障壁が存在します。
壁①:全米鉄鋼労働組合 (USW) の強硬姿勢と「雇用の不安」
最初の、そして最も強固な壁が「全米鉄鋼労働組合(USW)」です。USWは北米最大級の産業別労働組合であり、鉄鋼業界だけでなく、製紙、ゴム、エネルギーなど幅広い産業の労働者を組織しています。その政治的影響力は絶大で、特に民主党の支持基盤として長い歴史を持っています。
USWが反対する表向きの理由は「雇用の安定」と「労働協約の継承」です。過去、海外企業に買収された米国企業でリストラが行われたり、工場が閉鎖されたりした事例を引き合いに出し、「日本製鉄も約束を破るのではないか」という不信感を煽っています。しかし、日本製鉄は現行の労働協約を上回る条件を提示し、工場の閉鎖もしないと明言しています。それでも反対が収まらない背景には、組合指導部の政治的な思惑があります。
USWにとって、USスチールは「聖域」とも呼べる存在です。米国の産業力の象徴であるこの会社が外国企業の傘下に入ることは、組合の求心力を低下させかねないという危機感があります。また、組合指導部としては、買収に安易に賛成するよりも、強硬に反対して「労働者のために戦う姿勢」を見せる方が、組織内での支持を固めやすいという力学も働いています。彼らが求めているのは、単なる雇用維持の約束以上の、組合としての権限強化や、将来にわたる経営への関与の保証なのです。
壁②:米大統領選の「票田」としてのラストベルト(錆びた工業地帯)
2つ目の壁は、2024年の米国大統領選挙です。USスチールの本社があるペンシルベニア州は、かつて鉄鋼業で栄え、現在は衰退傾向にある「ラストベルト(錆びた工業地帯)」の中心地です。そして何より重要なのは、ペンシルベニア州が大統領選の勝敗を左右する「スイングステート(激戦州)」であるという事実です。
近年の米大統領選では、特定の政党支持が固まっていない激戦州を制した候補が勝利する傾向にあります。ペンシルベニア州はその中でも選挙人の数が多く、最重要州の一つとされています。この州には多くの鉄鋼労働者やその家族、関連産業に従事する有権者が住んでいます。彼らの多くはUSWの影響下にあり、または「強いアメリカの復活」を望む保守層です。
現職の大統領(民主党)にとっても、返り咲きを狙う前大統領(共和党)にとっても、ペンシルベニア州の労働者票は喉から手が出るほど欲しい存在です。そのため、両陣営とも「私はUSスチールを守る」「外国への売却は許さない」と声高に叫ぶことで、労働者に寄り添う姿勢をアピールせざるを得ない状況になっています。つまり、日本製鉄の買収提案は、政策論争の具ではなく、集票マシンの燃料として消費されているのです。選挙が終わるまでは、どちらの候補も「買収容認」へと舵を切ることは政治的自殺行為になりかねません。
壁③:CFIUS(対米外国投資委員会)による安全保障上の懸念
3つ目の壁は、法的な審査機関である「対米外国投資委員会(CFIUS)」です。CFIUSは財務長官が議長を務め、国防総省や国務省などの代表で構成される組織で、外国企業による米国企業の買収が米国の国家安全保障を脅かさないかを審査する強力な権限を持っています。
通常、日本のような同盟国の企業がCFIUSの審査で拒否されることは稀です。しかし、今回は「鉄鋼」という物資が重要インフラや軍事産業のサプライチェーンに直結している点が焦点となっています。反対派は、「有事の際に外国企業が供給をコントロールすることのリスク」や「中国市場で活動する日本企業を通じて情報や技術が流出する懸念」を主張しています。
詳細解説:CFIUSの審査基準と「経済安全保障」の定義
CFIUS(Committee on Foreign Investment in the United States)の審査基準は近年、厳格化の一途を辿っています。かつては軍事技術の流出防止が主眼でしたが、現在は「経済安全保障」という広い概念の下、以下のような点も審査対象となります。
- 重要インフラへの影響: エネルギー、通信、交通だけでなく、鉄鋼のような基礎素材も対象となり得ます。
- サプライチェーンの強靭性: 特定の国や企業への依存度が高まるリスクを評価します。
- 機微な個人情報の管理: 買収対象企業が保有する米国市民のデータへのアクセス権限。
- 第三国への影響力: 買収企業が中国などの懸念国と深い関係にある場合、そこを経由した影響力行使を警戒します。
日本製鉄の場合、中国国内にも生産拠点を持っていることが、一部の強硬派から問題視されています。「中国政府の影響を受ける可能性がある企業に、米国の鉄鋼産業を委ねてよいのか」というロジックです。これは客観的に見れば過度な懸念ですが、CFIUSの判断には時の政権の意向も反映されるため、純粋な法的審査だけで決まらない難しさがあります。
国際M&Aアナリストのアドバイス
「私が以前ピッツバーグを訪れた際、現地のダイナーで退職した鉄鋼労働者と話す機会がありました。彼は『日本車は買うし、日本は好きだ。だが、USスチールは俺たちの魂なんだ』と語っていました。この『理屈ではない感情』こそが、USWの強硬姿勢を支える根源です。ワシントンのロビイストたちは、この感情を巧みに利用して『安全保障』というもっともらしい言葉に変換し、CFIUSへの圧力としています。投資家の皆様は、CFIUSの審査が単なる法律論ではなく、高度な政治判断であることを理解しておく必要があります」
日本製鉄はなぜリスクを冒してまでUSスチールを必要とするのか
これほどの逆風を受けながらも、なぜ日本製鉄はUSスチールの買収を諦めないのでしょうか。2兆円という巨額資金と、政治的リスクを背負ってまで獲得したいもの。それは、縮小する国内市場からの脱却と、グローバルな鉄鋼業界再編の中で生き残るための「絶対的な規模」と「技術」です。
「グローバル粗鋼生産能力1億トン」構想と米国市場の魅力
日本製鉄は長期的な経営目標として「グローバル粗鋼生産能力1億トン体制」を掲げています。鉄鋼業は装置産業であり、規模のメリットが競争力に直結します。しかし、日本の内需は人口減少とともに縮小傾向にあり、国内だけでは成長が見込めません。そこで、成長する海外市場を取り込むことが不可欠となります。
その中で、米国市場は極めて魅力的です。米国は先進国の中で唯一、人口増加が続いており、インフラ更新需要やエネルギー産業向けの鋼材需要が旺盛です。さらに、地産地消の傾向が強く、輸入鋼材に対しては関税障壁があるため、米国内に生産拠点を持つことのメリットは計り知れません。USスチールを買収すれば、日本製鉄は一挙に米国でのトップクラスのシェアを獲得し、「インド」と「米国」という二つの巨大成長エンジンを手に入れることになります。
脱炭素社会における電炉シフトと技術的シナジー
鉄鋼業界は今、「脱炭素」というかつてない課題に直面しています。従来の石炭を使う「高炉」法はCO2排出量が多いため、電気を使って鉄スクラップを溶解する「電炉」法へのシフトが世界的に進んでいます。
USスチールは、実はこの電炉技術において、あえて古い高炉を閉鎖し、最新鋭の電炉メーカー(ビッグ・リバー・スチールなど)を買収することで急速に体質転換を進めてきた企業です。日本製鉄は世界最高レベルの技術力を持っていますが、高炉の比率が高く、電炉シフトを加速させる必要があります。USスチールの持つ米国内の安価なエネルギーと電炉の操業ノウハウ、そして日本製鉄の持つ高級鋼材(自動車用鋼板や電磁鋼板など)の製造技術を組み合わせることで、環境対応と高付加価値化の両立が可能になります。この技術的シナジーこそが、将来の競争力の源泉となります。
中国・インド勢の台頭と日米連合による対抗軸の形成
世界の鉄鋼業界を見渡すと、中国の宝武鋼鉄集団が圧倒的な生産量で首位を独走しており、インドのアルセロール・ミッタルなども巨大な力を持っています。中国企業は国家の支援を受けて安価な鋼材を大量に供給し、市場を席巻してきました。これに対抗するためには、日米のトップ企業が手を組み、規模と技術の両面で対抗軸を作る必要があります。
「日米連合」による自由主義経済圏のサプライチェーン強化は、本来であれば米国の国益にも合致するはずです。日本製鉄の経営陣は、この「対中国」という文脈において、今回の買収が西側諸国全体の産業競争力を高める最善手であると確信しています。だからこそ、一時的な政治的逆風に屈することなく、粘り強く交渉を続けているのです。
| 順位 | 企業名 | 国籍 | 生産量(万トン) | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 中国宝武鋼鉄集団 | 中国 | 約13,000 | 圧倒的世界首位 |
| 2 | アルセロール・ミッタル | ルクセンブルク/インド | 約6,800 | グローバル展開 |
| 3 | 鞍山鋼鉄集団 | 中国 | 約5,500 | 中国国内大手 |
| 4 | 日本製鉄 | 日本 | 約4,400 | USスチール買収で3位浮上の可能性 |
| … | … | … | … | … |
| 27 | USスチール | 米国 | 約1,400 | 日本製鉄と合算で約5,800万トン規模へ |
※数値は直近の業界統計に基づく概算値であり、変動する可能性があります。
【独自分析】今後どうなる?想定される3つの結末シナリオ
事実関係と背景を理解した上で、最も気になる「今後どうなるのか」について予測します。現状の複雑なパラメーターを考慮すると、以下の3つのシナリオが想定されます。それぞれの発生確率と、その場合に何が起きるかを解説します。
シナリオA:大統領選後の「条件付き承認」(可能性:中〜高)
最も現実的かつ可能性が高いと考えられるのが、大統領選挙(2024年11月)が終了した後に、CFIUSが買収を承認するシナリオです。
選挙が終われば、政治家たちは「票のためのパフォーマンス」を続ける必要性が薄れます。そのタイミングで、日本製鉄がさらなる譲歩案(米国内投資の積み増し、USWへの配慮、経営陣の米国人比率維持など)を提示し、CFIUSが「国家安全保障上の懸念は解消された」と判断する形をとります。これならば、政治家も「厳しい条件を飲ませて米国の国益を守った」という名目が立ちます。
この場合、買収完了は当初予定より遅れますが、最終的には成立します。日本製鉄にとってはコスト増となりますが、米国市場への参入という最大の果実は得られます。
シナリオB:審査延長による長期化と泥沼化(可能性:中)
次に考えられるのが、CFIUSの審査が結論を出せずに再申請を繰り返す、あるいは訴訟に発展して長期化するパターンです。
もし選挙で「買収絶対阻止」を掲げる候補が勝利し、その公約を強硬に実行しようとした場合、大統領権限で買収禁止命令が出る可能性があります。これに対し、日本製鉄やUSスチール側が法的措置で対抗すれば、決着まで数年単位の時間がかかる泥沼状態に陥ります。この間、USスチールの株価は低迷し、経営も不安定化するリスクがあります。
シナリオC:政治的圧力による「完全破談」(可能性:低〜中)
最も避けたいシナリオですが、政治的圧力が法的根拠を超えて強まり、日本製鉄が買収を断念せざるを得なくなるケースです。
例えば、CFIUSが「いかなる条件をつけても安全保障上のリスクを排除できない」という極めて厳しい判断を下した場合や、USWがストライキ等で実力行使に出て、買収後の経営が成り立たないと日本製鉄が判断した場合です。この場合、日本製鉄は巨額の違約金(ブレークアップ・フィー)を支払う必要が生じる可能性があり、財務的にも大きなダメージとなります。ただし、日米関係への悪影響を懸念する声も日米双方の経済界にあるため、完全に破談となる確率はシナリオAよりは低いと見ています。
国際M&Aアナリストのアドバイス
「過去の類似案件として、2005年の中国海洋石油による米ユノカル買収の挫折や、2006年のドバイ・ポーツ・ワールドによる米港湾管理事業の買収断念が挙げられます。いずれも『安全保障』と『政治的反発』が壁となりました。しかし、今回は同盟国である日本企業による買収です。もしこれが破談になれば、『米国は同盟国からの投資さえ拒む閉鎖的な市場だ』というメッセージを世界に発信することになり、米国経済にとってもマイナスです。ワシントンの実務家たちはそのリスクを理解しており、何らかの『政治的な手打ち』、つまりシナリオAへの着地を模索しているはずです」
投資家はどう動くべきか?株価への影響と対応策
最後に、この不確実な状況下で投資家がどのように行動すべきか、具体的な戦略を提案します。
USスチール株価と買収価格(55ドル)の乖離が示唆するもの
現在、USスチールの市場株価は、日本製鉄が提示している買収価格(55ドル)を大きく下回る水準で推移していることが多いです。この価格差(スプレッド)は、市場が「買収が成立しないリスク」を織り込んでいることを意味します。
もし買収が成立すれば、株価は55ドルに収束するため、現在の株価で購入していれば大きなリターン(差益)が得られます。これを狙う「イベント・ドリブン」や「マージャー・アービトラージ」と呼ばれる投資戦略をとる機関投資家もいます。しかし、個人投資家にとっては、破談になった場合に株価が買収提案前の水準(30ドル台後半〜40ドル台)まで急落するリスクがあるため、ハイリスク・ハイリターンの賭けになります。
買収成立時・破談時の日本製鉄株価の動き予測
一方、日本製鉄の株価についてはどうでしょうか。
- 買収成立時: 短期的には「巨額買収による財務負担への懸念」や「高値づかみ」という批判から株価が軟調になる可能性があります。しかし、中長期的には米国市場での収益寄与が評価され、再評価(リレーティング)が進むでしょう。
- 買収破談時: 逆説的ですが、短期的には「不確実性の解消」と「巨額支出の回避」を好感して株価が上昇する可能性があります。しかし、長期的には「成長戦略の頓挫」と見なされ、ジリ貧になるリスクを孕んでいます。
個人投資家が注意すべき「ニュースヘッドライン」のリスク
この案件は政治色が強いため、大統領候補の発言一つで株価が乱高下します。「買収阻止を明言!」というヘッドラインが出ると売りが殺到しますが、その翌日に「条件次第では検討」といった軟化発言が出ることもあります。
個人投資家へのアドバイスとしては、日々のニュースヘッドラインに過剰反応して狼狽売り・飛びつき買いをしないことです。特に選挙期間中は過激な発言が出やすいため、ノイズを割り引いて考える冷静さが必要です。USスチール株への投資は「政治ギャンブル」の要素が強いため、ポートフォリオの一部に留めるのが賢明です。日本製鉄株については、この買収がなくても企業としての基礎体力は向上しているため、配当利回りなどを見ながら長期保有を検討する余地があります。
国際M&Aアナリストのアドバイス
「ヘッジファンドなどの機関投資家は、CFIUSの審査状況やワシントンのロビイストからの情報を基に、秒単位でポジションを調整しています。個人投資家が同じ土俵で戦うのは不利です。むしろ、『買収が成立しようがしまいが、鉄鋼需要はなくならない』という原点に立ち返り、企業のファンダメンタルズ(基礎的条件)に注目してください。日本製鉄が示している『海外で稼ぐ』という意志そのものは、買収の成否にかかわらず評価できるポイントです」
USスチール買収に関するよくある質問 (FAQ)
読者の皆様から寄せられる疑問に対し、簡潔にお答えします。
Q. 政権交代が起きた場合、買収は白紙になりますか?
必ずしも白紙になるとは限りません。共和党の有力候補は保護主義的な姿勢を示していますが、ビジネスライクな取引を好む側面もあります。就任後に「より有利な条件(米国内への追加投資など)」を引き出した上で、成果として承認する可能性も残されています。
Q. 買収が成立した場合、社名やブランドは変わりますか?
いいえ、変わりません。日本製鉄は、買収後も「USスチール」という社名とブランドを維持し、本社もピッツバーグに残すことを約束しています。これは米国の象徴としてのプライドに配慮したものです。
Q. 独占禁止法(反トラスト法)の問題はありますか?
独占禁止法上の問題はクリアされています。日本製鉄の米国内でのシェアは限定的であり、USスチールと合わせても市場を独占する規模にはならないため、競争当局の承認はすでに得られています。問題はあくまでCFIUSによる安全保障審査です。
まとめ:政治ショーの裏にある「経済の実利」を見極めよう
日本製鉄によるUSスチール買収は、経済と政治が複雑に絡み合った、現代を象徴するM&A案件です。最後に、本記事の要点を振り返り、投資家としての心構えを確認します。
- 買収の壁: 「USW(労働組合)」「大統領選」「CFIUS(安全保障)」の3つが複雑に連動している。
- 本質: 経済合理性では成立しているが、選挙向けの政治パフォーマンスが障壁となっている。
- シナリオ: 選挙後の「条件付き承認」が最も現実的な落としどころだが、長期化リスクもある。
- 投資判断: ニュースのヘッドラインに踊らされず、買収の成否を超えた企業の長期戦略を評価する視点を持つ。
この騒動は、私たちに「グローバル経済における政治リスク」の重要性を改めて教えてくれています。しかし、どれほど政治が介入しようとも、最終的には「経済の実利」が勝つことが多いのも歴史の教訓です。米国にとっても、鉄鋼産業の衰退を放置するよりは、日本企業の資本と技術を入れて再生させる方が合理的だからです。
今日からできるアクションとして、まずは日々のニュースを見る際に「誰が、何のために発言しているか」という背景(ポジショントーク)を読み解く習慣をつけてみてください。それが、不確実な世界で資産を守るための第一歩となります。
国際M&Aアナリストのアドバイス
「投資において最も危険なのは『恐怖』と『強欲』です。今回の件で言えば、『米国に拒絶される恐怖』と『買収成立で儲けたい強欲』です。一度深呼吸をして、チャートやニュースから離れ、この買収が5年後、10年後の世界経済にどのような意味を持つかを想像してみてください。長期的な視点こそが、ノイズを消し去る最強のフィルターとなります」
今後の重要イベントチェックリスト
- CFIUSの審査期限と延長申請のニュース
- 米国大統領選挙の投開票結果(11月)
- 次期大統領による就任後の経済政策発表
- 日本製鉄およびUSスチールの四半期決算発表(経営陣のコメントに注目)
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